“音の達人” 奥山 敏美さんにインタビュー 今回の達人はウクレレ講師・奏者、“音の達人”奥山さん。港南台のキタミビル2Fの有隣堂音楽教室に講師としてやってきたのは25年以上も前のこと。港南台は開発途中で駅前の道路がまだ砂利道だった頃だ。 そして、開発が進み多くの人でにぎわうようになったこのまちに、“誰もが気軽に音楽に触れる機会を”と隣接のタウンカフェで『音楽通り』と題した演奏イベントを定期的に行っている。 愛娘のおなかの中には新たな生命が宿り、もうすぐ「おじいちゃん」になる奥山さん。孫との対面を心待ちにしながらキタミビル2Fで奏でるその音は、いまや舗装された駅前通りを行き交う人々に今日も元気を与えている。
音楽を始めたのは母親の影響。幼い頃にピアノを習い始めたのがきっかけです。当時、まわりで音楽を習っている男の子はほとんどいませんでした。その後、大学時代には合唱部でコンダクターもやっていましたね。
本格的に演奏者になろうと決めたのは大学4年生の夏です。当時は世間的にエレクトーンが流行り始めていたので、エレクトーン教室に通うのが私の就活でした。
一般の企業に勤めることも考えたけど、その場合は音楽をやめなければいけない。会社の部活のようなところで中途半端に音楽をやるのは嫌だったんです。収入は不安定だけど、それでも音楽の仕事を選んだ。やっぱり音楽が好きだったんですね。
それはもう、たくさん(笑)。音楽は流行りものなので、エレクトーンのブームが下火になったときは家族を養うのもままならない状態でした。収入を得るために手段を選んだりする余裕はなかったし、夜のお店のような場所で演奏することもありましたよ。でも、講師の仕事のおかげでそっちに染まってしまうことはなかったですけどね。エレクトーンブームは私が三十二、三の頃には徐々に落ち着いてきたので、それ以後はピアノやギターも教えました。もちろん、今でもエレクトーンは教えていますよ。。
つらい状況のときに、どうして音楽の仕事をやめなかったのですか?
自分で決めた道だったので、やめるわけにはいきませんでしたね。今となっては他の仕事をしろっていわれても無理ですし。一生続けていくと思いますよ
音楽を“演奏する”とは別に“教える”ことについてはどうですか?
若い頃は生徒さんのために「教えてあげている」という感覚だった。でも時間が経つにつれて、生徒さんの成長を感じることが自分にとって大きな喜びとなるようになりました。先週のレッスンよりも進歩した生徒の演奏を聴くと、その生徒の一週間分のがんばりを感じることができて私もとてもうれしくなります。音楽を通して人生を共有できることが講師としての醍醐味ですね。
ウクレレはどのようなきっかけで演奏するようになったのですか?
本格的に始めてからはまだ6年ぐらいです。サーファーの娘がハワイのお土産で買ってきてくれたんです。サーフィンで知り合った現地の人がたまたまショップのオーナーさんで。いいのを買ってきてくれたんですよ。持った瞬間にちがうと思いました。一応それなりのウクレレは持っていたんですが、楽器は良い物ほどいい音が出ますから。
サーファーというかっこいい娘さんについて教えて下さい!
高校まではずっとバレーをやっていたのですが、なぜか美大に進みグラフィックデザイナーを経験した後、つい最近まではケアプラザで介護の仕事をしていました。旦那の影響でサーフィンにどっぷり浸かっていますね。おなかの中には赤ちゃんがいて、来月にも出産予定です。
お孫さんに湘南の浜辺でウクレレ教えてあげてはいかがですか?
なんかの雑誌に出てきそうだな。。。(笑)でも、ゆくゆくはそんなこともできればいいですね。
今から楽器を始めるにはどうしたらいいですか?
まずは出来る範囲で思い切って一番高い楽器を買うこと。いい音がでるし、ちょっとやそっとじゃあ投げ出せなくなるでしょ。後は毎日抱いて寝ること。楽器を自然な形で持てる人はうまい人。日ごろから楽器に慣れておくのは大切ですよ。
・・・というわけで、将来息子を前に湘南の浜辺で一曲弾き語るために、今から○万円のギターを買って、毎日抱いて布団に入ろうと心に決めたのでした [インタビュー] 圭吾 取材日:2006年6月
表現の達人 奥山 敏美(おくやま としみ)
55才 藤沢市在住
有隣堂港南台ミュージックセンター